岡弁(岡山県倉敷市の弁護士)ブログ

岡山県倉敷市で法律事務所を経営する弁護士(若手→中堅)が日々の雑感をつぶやきます。紛らわしいですが岡山弁護士会の公式ブログではありませんのでご了解ください(笑)

小田中直樹「歴史学ってなんだ?」を読みました。

もし今の仕事を辞めたら歴史家になりたい、というのが昔からの願望としてあります(笑)
 
当ブログでもたびたび歴史に関する記事を投稿していますが、「歴史学」という学問について深く考えたことが無かったので、とりあえず入門書ということで手に取ってみた本です。
 
小田中直樹氏の「歴史学ってなんだ?」。
 
 
 
本書のテーマは、
 
1.歴史学は史実を明らかにできるか
 
2.歴史学は社会の役に立つか
 
という2点に尽きます。
 
結論として、「歴史学」という学問分野について知るための最初の一冊としてとても良い本でした。
 
 
一方、私の興味は、「法律家がやっている事実認定と歴史家がやっている史料批判には違いがあるのか」という点。
 
これまで私は、歴史家はあくまでも客観的真実を追い求め、法律家は紛争処理に必要な限度で訴訟法的真実が何か判断する、という風に思っていました。
 
しかし、現在の歴史学では、「客観的真実は不可知である」というのが定説になっているのだとか。
 
その上で、著者は「コミュニケーショナルに正しい認識」には到達し得ると主張します。
 
私なりにその意味を解釈すると、多数の歴史家が研究を進め、かつ批判や再反論といったコミュニケーションを通じて、多数の人々の間でどうやら正しいに違いないという認識及び解釈に至ることは可能だということを言っているのだと思います。
 
これって、実は裁判でやっていることと同じことではないでしょうか。
 
当事者から提出された証拠の評価、証拠から導かれる事実などについて、当事者と裁判官がコミュニケーションすることにより、多くの人が「何となくこのような事があったらしい」と納得するような事実を発見していく作業、それが裁判で行われている作業なのではないか。
 
そうすると、客観的真実を知ることはできないという点で両者は共通していることになり、作業の内容は変わらないのではないか、とも思えます。
 
となると、両者の違いは「時的制限」の有無に限られることになるかもしれません。
 
つまり、裁判の場合、どこかの時点で審理を打ち切らなければならないので、証拠の提出には期限があります(専門的には、「事実審の口頭弁論終結時」と言います)。
 
一方、歴史研究の場合、先達の学問的業績の上に立って、際限なく新たな知見を加えていくことができます。
 
何か一つのことを人生かけて追い求めるっていうのは、大変だけどとても魅力的な作業のように思います。