キリル・ペトレンコ首席指揮者就任演奏会
Beethoven: Symphony No. 9 / Petrenko · Berliner Philharmoniker
待ちに待ったペトレンコの首席指揮者就任演奏会、デジタル・コンサートホールにアップされました!(YouTube公式チャンネルでもハイライトが公開されました)
翌日のブランデンブルク門でのコンサートをネットで見たのですが、ずいぶんとリラックスした(悪く言うと緊張感に欠けたような)印象で、少し統率が乱れている部分もあり、アレっと思ったのですが、さすがにシーズンのオープニングコンサートではそのようなことはありませんでした。
惜しむらくは、ここは指揮者を見たいというところで、必ずしも指揮者を映してくれないということ。
ペトレンコは指揮姿も面白い(画になる)ので、ペトレンコ・カメラの映像だけを見られる選択肢が欲しいところです。
ところで、カラヤン時代を経験しているベルリン・フィルの楽団員が、インタビューの中で「カラヤンは常にアグレッシブだった」と言っているのを見たことがあります。
Tchaikovsky: Symphony No. 6 / Karajan · Berliner Philharmoniker
あらためて映像を見て、ペトレンコが時折見せるアグレッシブさはカラヤンに似ているなと思いました。ラトルの緻密さ、アバドの燃焼度、カラヤンのアグレッシブさを兼ね備えたような理想的な指揮者ということですね(笑)
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生茶ゼリー@中村藤吉本店
渡邊大門著「明智光秀と本能寺の変」を読みました。
そろそろ来年の大河ドラマにむけた出版ラッシュが始まりそうな季節ですが、ちくま新書の新刊「明智光秀と本能寺の変」を読みました。
同じ著者の本能寺の変に関する本は、以前にも読んだことがありますが、著者の基本的立場は変わっていないと思われます。
今回の新刊では、未だよく分かっていない明智光秀の前半生から始まり、京都代官時代や足利義昭との関係など、本能寺の変に至るまでの経緯についても一般向けにしっかりと書かれています。
本能寺の変に直接関係する記述は全体の3分の1~4分の1程度ですが、陰謀史観は歯牙にもかけず、史料批判をしっかりと行っていくという著者の姿勢は相変わらずで、信頼できる内容。
そして、最新の研究結果も踏まえた論述になっています。
最近は、しっかりとした史料批判の観点から、陰謀史観を批判する一般向けの本も出版されていて、喜ばしい限り。
例えばコレ。
ようやく真っ当な、換言すれば「詰まらない」本が一般向けにも売れるようになったという世相の変化なのでしょうか。
(著者が今回の新刊の中で、本能寺の変についての執筆依頼があった際、黒幕なんていないと言ったら企画がボツになったというエピソードに触れていますが、本筋から離れたどうでもいい話で盛り上がっているワイドショーなんかみると、実際そうなんだろうなあ・・・)
ところで、光秀が謀反を起こした動機について、著者は「将来に対する漠然とした不安」であり、四国政策の転換は大きな意味を持たないという見解に立っておられるようですが、私はやはり四国政策の転換は、光秀が「将来に対する漠然とした不安」を持つようになった要因として大きな意味があったと思います。
この点について、著者は、光秀は変の直前の段階では長曾我部との折衝についての窓口役から外されていたという最近の有力な見解に対して、そうではなかったと主張されています。
その根拠として、最近話題になった石谷家文書(本能寺の変直前に長曾我部元親から齋藤利三に宛てられた書状)を挙げているのですが、長曾我部から書状を受け取っている事実から光秀ルートが生きている(光秀は窓口役から外されていなかった)という事実を推認することは、少し飛躍があるように私には思われます。
追い詰められた長曾我部が、従前の窓口役であり、縁戚関係にもある光秀に書状を送ることは全く不自然なことではなく、光秀宛て(実際は齋藤利三宛)に書状が送られた事実と光秀が窓口役から外された事実は両立すると考えられるためです。
もう1点、光秀が変の直前に詠んだとされる有名な愛宕百韻での上の句
「ときは今 あめが下知る 五月哉」
に関する考察についても、少し疑問があります。
この句については、土岐氏の支流である光秀が天下を獲ることを仄めかしたものと解釈する見解があるのですが、著者はこの解釈を否定しています。
その根拠として、光秀の出自が土岐氏の支流である土岐明智氏かどうかは疑問であるという点を挙げられていますが、著者も認めるとおり、少なくとも光秀が土岐明智氏を「僭称」した可能性は高く、そうであれば、自らが土岐明智氏の出身であることを前提としてこのような句を詠むことは何ら不自然ではありません。
また、著者は、常識的に考えて、この時期に光秀が謀反の意思を堂々と披露するとは考えられないとも述べられていますが、そもそも人間の行動は必ずしも合理的なものとは言えないと思います(もちろん、合理的でないといっても全く無軌道ということではなく、最近の行動経済学でも言われているように「予想どおりに不合理」な行動をするのが人間だということです)。
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さらに、当時の状況下で光秀がこの句を詠んだとして、信長の忠臣である光秀が謀反を仄めかしたものと受け取る人間はほとんどいなかったと思われます(信長ですら光秀を信用しきっていたわけなので)。
後から考えれば、実はココで謀反を仄めかしていた、と分かるのが関の山ではないでしょうか。
となると、光秀が、後世に自身のエピソードを提供するため、(言わば武勇伝として)このような句をあえて詠んだという解釈も十分に成り立つのではないかと思えます。
著者が陰謀史観らしきものを極力排除しようとされている姿勢はよく分かるのですが、あらゆる事象を合理的に解釈しようとするあまり、「一見すると不合理にも思えるが十分成り立ちうる解釈」が切り捨てられてしまっているように私には思えました。
さて、皆さんはどのように考えられるでしょうか。
(史料の解釈として許される範囲において)個々人の自由な解釈が許されるというのが歴史の面白いところです。
以前にも触れたような気がしますが、やっぱり歴史学における史料解釈は、音楽における楽譜の解釈と似ていますね。
チャーシュー麺@あまいからい
ペトレンコ&ベルリン・フィルの第九!!!
先日のペトレンコ&ベルリン・フィルのオープニングコンサート(ベートーヴェンの第九)。
デジタル・コンサートホールでの映像公開を心待ちにしているんですが、音源がすでに公開されていました!
ドイツのラジオ局?だと思いますが、全編聴取可能。
まだ聴き始めたところ(聴きながらブログを書いているところ)ですが、ペトレンコらしい緻密さと燃焼度の高さを兼ね備えた名演になりそうです!
話は全然変わりますが、ペトレンコはリハーサルが非常に厳格らしく、そこから生み出される緻密さと本番での燃焼度の高さは、以前もブログで触れたかもしれません(よく覚えていません)が、フルトヴェングラーを彷彿とさせます。
前任者のラトルは、同じように非常に緻密な音楽設計をされる指揮者で、ハマったときは本当に凄い演奏になる(特にマーラーは素晴らしいと思います)のですが、ともすると若干作業的な感じ(オーケストラの燃焼度が低いというか・・・)になってしまうきらいがあったんですよね。
さらに前任者のアバドは、逆にリハーサルはすごく適当で、こんなんで大丈夫なんだろうかと思っていると本番が素晴らしい、という指揮者だったそうです(まあ、一般的にもそういうイメージはありますよね)。
先日、ペトレンコ&ベルリン・フィルの別の録音を聴きながら感じたのですが、映像で見ているときには聞き逃していた部分が、録音だけ聴いてあらためて気づくというのがあるんですよね。
録音だけ聴いていたのでは気付かなかったこと、ああ実際はこういうことをやりたかったのね、ということが映像を見て分かるということはよくあるのですが、逆のパターンはあまり経験ないです。
それだけ情報量が豊富(それだけ緻密なリハーサルをしている)ということ。
実際、ペトレンコ&ベルリン・フィルの演奏は、映像から得られる視覚情報も豊富なので、認識の偏り(要するに見る方に集中力が偏っていること)のため聴き逃してしまっていた部分が、録音だけに意識を集中した結果、浮かび上がってくるということなのでしょう。
話を「第九」に戻しますと、現代風(というよりピリオド風?)のキビキビとしたテンポ設定で、奇を衒わず、楽譜に忠実で、しっかりと押さえるべきところを押さえた横綱相撲のような演奏です。
就任披露演奏会ということですから当然といえば当然ですが、燃焼度の高さも相変わらずの模様。
早く映像でも見たい!