岡弁(岡山県倉敷市の弁護士)ブログ

岡山県倉敷市で法律事務所を経営する弁護士(若手→中堅)が日々の雑感をつぶやきます。紛らわしいですが岡山弁護士会の公式ブログではありませんのでご了解ください(笑)

渡邊大門著「明智光秀と本能寺の変」を読みました。

そろそろ来年の大河ドラマにむけた出版ラッシュが始まりそうな季節ですが、ちくま新書の新刊「明智光秀本能寺の変」を読みました。

 

明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 

 

同じ著者の本能寺の変に関する本は、以前にも読んだことがありますが、著者の基本的立場は変わっていないと思われます。

 

nishigawa0323.hatenablog.com

 

今回の新刊では、未だよく分かっていない明智光秀の前半生から始まり、京都代官時代や足利義昭との関係など、本能寺の変に至るまでの経緯についても一般向けにしっかりと書かれています。

 

本能寺の変に直接関係する記述は全体の3分の1~4分の1程度ですが、陰謀史観は歯牙にもかけず、史料批判をしっかりと行っていくという著者の姿勢は相変わらずで、信頼できる内容。

そして、最新の研究結果も踏まえた論述になっています。 

 

最近は、しっかりとした史料批判の観点から、陰謀史観を批判する一般向けの本も出版されていて、喜ばしい限り。

例えばコレ。

陰謀の日本中世史 (角川新書)

陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 

ようやく真っ当な、換言すれば「詰まらない」本が一般向けにも売れるようになったという世相の変化なのでしょうか。

(著者が今回の新刊の中で、本能寺の変についての執筆依頼があった際、黒幕なんていないと言ったら企画がボツになったというエピソードに触れていますが、本筋から離れたどうでもいい話で盛り上がっているワイドショーなんかみると、実際そうなんだろうなあ・・・)

 

 

ところで、光秀が謀反を起こした動機について、著者は「将来に対する漠然とした不安」であり、四国政策の転換は大きな意味を持たないという見解に立っておられるようですが、私はやはり四国政策の転換は、光秀が「将来に対する漠然とした不安」を持つようになった要因として大きな意味があったと思います。

 

この点について、著者は、光秀は変の直前の段階では長曾我部との折衝についての窓口役から外されていたという最近の有力な見解に対して、そうではなかったと主張されています。

その根拠として、最近話題になった石谷家文書(本能寺の変直前に長曾我部元親から齋藤利三に宛てられた書状)を挙げているのですが、長曾我部から書状を受け取っている事実から光秀ルートが生きている(光秀は窓口役から外されていなかった)という事実を推認することは、少し飛躍があるように私には思われます。

追い詰められた長曾我部が、従前の窓口役であり、縁戚関係にもある光秀に書状を送ることは全く不自然なことではなく、光秀宛て(実際は齋藤利三宛)に書状が送られた事実と光秀が窓口役から外された事実は両立すると考えられるためです。

 

もう1点、光秀が変の直前に詠んだとされる有名な愛宕百韻での上の句

「ときは今 あめが下知る 五月哉」

に関する考察についても、少し疑問があります。

この句については、土岐氏の支流である光秀が天下を獲ることを仄めかしたものと解釈する見解があるのですが、著者はこの解釈を否定しています。

その根拠として、光秀の出自が土岐氏の支流である土岐明智氏かどうかは疑問であるという点を挙げられていますが、著者も認めるとおり、少なくとも光秀が土岐明智氏を「僭称」した可能性は高く、そうであれば、自らが土岐明智氏の出身であることを前提としてこのような句を詠むことは何ら不自然ではありません。

また、著者は、常識的に考えて、この時期に光秀が謀反の意思を堂々と披露するとは考えられないとも述べられていますが、そもそも人間の行動は必ずしも合理的なものとは言えないと思います(もちろん、合理的でないといっても全く無軌道ということではなく、最近の行動経済学でも言われているように「予想どおりに不合理」な行動をするのが人間だということです)。 

 

さらに、当時の状況下で光秀がこの句を詠んだとして、信長の忠臣である光秀が謀反を仄めかしたものと受け取る人間はほとんどいなかったと思われます(信長ですら光秀を信用しきっていたわけなので)。

後から考えれば、実はココで謀反を仄めかしていた、と分かるのが関の山ではないでしょうか。

となると、光秀が、後世に自身のエピソードを提供するため、(言わば武勇伝として)このような句をあえて詠んだという解釈も十分に成り立つのではないかと思えます。

 

著者が陰謀史観らしきものを極力排除しようとされている姿勢はよく分かるのですが、あらゆる事象を合理的に解釈しようとするあまり、「一見すると不合理にも思えるが十分成り立ちうる解釈」が切り捨てられてしまっているように私には思えました。

さて、皆さんはどのように考えられるでしょうか。

(史料の解釈として許される範囲において)個々人の自由な解釈が許されるというのが歴史の面白いところです。

以前にも触れたような気がしますが、やっぱり歴史学における史料解釈は、音楽における楽譜の解釈と似ていますね。

 

 

 

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