岡山朝日高校管弦楽部第13回定期演奏会に行ってきました!
いつもお世話になっている方からチケットをいただきましたので
岡山朝日高等学校管弦楽団 第13回定期演奏会
に行ってきました!
プログラムは、
ヴェルディ 歌劇「運命の力」序曲
レスピーギ 交響詩「ローマの松」
サン=サーンス 交響詩「死の舞踏」
フバイ 「カルメンの主題による華麗な幻想曲」
などなどでした。
まずは、団員の皆さん、無事に晴れ舞台を終えられましたこと、誠におめでとうございます。
そして、お疲れ様でした!
客席もほぼ満席だったようで、何よりでした。
弦楽器は初心者から始めた方が大多数ということですが、そのような団員構成でこれだけの難曲をステージに乗せるということがどれほど大変なことか、学生時代にオーケストラをやっていた私にはよく分かります。
並大抵ではない努力の結晶。
そのことが、十分に伝わってくる演奏でした。
それと共に、とても素晴らしい環境で部活動をされているんだなあ、とも感じました。
校長先生のスピーチにもあったとおり、岡山朝日高校の誇りとする部活動の一つというのも頷けます。
驚いたのは、プログラムの分厚さ!
これが何を意味するかということは、分かる人には分かると思います。
つまり、スポンサーの数ということ。
地元の優良企業、商店街の商店や学習塾などはもちろんのこと、医者や弁護士の多いこと多いこと。
多くが同校の卒業生や関係者なのでしょう。
それだけの資金力を有する部活動なのだということに妙に納得してしまいました。
ここで一つ、このオーケストラがさらに高いステージへ昇るための極めて容易かつ有効な方法を提案したいと思います。
それは、
顧問を指揮台に乗せるな
ということです。
私自身、顧問の先生がどのような方であるか全く存じ上げませんので、この際、その指導力云々ついてどうこう言うつもりはありません。
何より勿体無いのは、これだけの能力のある生徒が集まっており、しかも手厚い後援を受けられる状況であるにもかかわらず、「純粋に生徒だけで音楽を創り上げる機会が奪われている」ということなのです。
私の高校生時代のことをあらためて思い返してみますと、「一応」顧問の先生はいたように記憶していますが、運営や練習には一切ノータッチでした。
(もちろん今から思えば、大人たちの多大な支援に支えられて初めて可能であったのだろうと思いますが)
合宿などの際には「一応」顧問の先生も引率者として同行されていたように思いますが、少なくとも練習場でその姿を見た記憶がありません。
顧問の先生は、「生徒がやりたいようにやる」ということをサポートする役割に徹しておられたように思います。
演奏会の曲目やホールの選定、合宿の実施も含めて、練習計画から何からあらゆることを全て生徒が企画し、練習指導も上級生が担当していました(年に数回だけ、プロの音楽家から指導を受ける機会はありました)。
パート練習であればパートトップが、管や弦のセクション練習であればセクションリーダー的な上級生が、全体練習は学生指揮者が練習指導を担当していました。
パートトップが下級生を一人ずつ呼び出して、1対1で何時間も練習に付き合うといったことも日常的にありました。
バイオリンパートなどは人数が多いので大変です。
合宿のときなどは、練習が深夜に及ぶこともしばしばでした。
(下級生はこれを「よびりん」といって恐れていましたが、なぜ「よびりん」と呼ばれていたのかはよく分かりません)
私自身、中学校は、顧問の先生が指導する吹奏楽部、それも本気で吹奏楽コンクールを目指すような学校でしたので、顧問-生徒という関係の中で音楽をやるということがどういうことか、ということについてはよく分かっているつもりです。
しかし、そのような経験を通して、「高校生」が自主的にオーケストラを運営することに特別な意味を感じています。
中学生の場合、自分で楽団を主催していくといっても限界がありますし、自分たちだけで(大人の助けを一切借りずに)音楽を創っていくことを要求するのは酷な面があると思います。
しかし、高校生になると、経験上、かなりの部分で音楽に対する考えというのが確立してきます。
実際、私が高校時代に所属していたオーケストラでは、(パートトップなどの責任ある立場にはない部員も含めて)それなりの割合の部員が自主的にオーケストラ・スコアを購入し、自分なりに楽曲の勉強をした上で、楽譜の解釈について意見を交換し合っていました。
その経験は、私の音楽人生においてかけがえのないものとなっています。
もちろん、年に一度の定期演奏会という一大イベントを自ら企画し実施することによって得られるものも大きかったと思います。
これが「顧問-生徒」という関係となると、対等の立場で音楽について意見を交換し合ったり、イベントを企画・実施することは不可能でしょう。
どれだけ顧問の先生が理解のある方であったとしても、原理的に不可能なのです。
(今から思えば、よくもまああそこまで生徒の自由にさせていたものだと思わなくもありませんが、、、)
また、大学生になると、高校生のような純粋さが失われるためか(笑)、高校生のような純粋な音楽体験では無くなるような気がします。(ここで詳細を述べることは若干憚られますので割愛します)
なので、「高校生」が自主的に運営するということに特別な意味がある、それによって得られる経験は人生において一度限りのものである、というのが中高大と一貫して吹奏楽部やオーケストラに所属してきた私の意見です。
「高校生」という音楽に対する姿勢が確立しつつある時期に、貴重な音楽体験の機会、つまり「大人の助けを全く借りずに一から音楽を創っていく」という機会を奪われることがどれほど大きな損失であるか。
このことを、岡山朝日高校管弦楽団を応援されている「大人たち」はよくよく考えてみるべきでしょう。
これほど簡単な方法で、生徒にこの上なく貴重な音楽体験の機会を作ることができるのですから。
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